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2014年2月23日 (日)

特殊任天堂論・近年の任天堂に見られる「2Dと3D」の間を行き来するデザインのヤバい現代性

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 前回の「8bit16bitリバイバル」のエントリ と半ば地続きのエントリ、ビデオゲームの2Dと3Dの歪つな溝についてのエントリです。書いてるうちに特殊な任天堂論に突入してしまいました。


 ビデオゲームの3DCG時代に突入して以降のゲームメカニックは単純な3D空間を自由に動けるというだけではなかった。現在メディアの中で大衆性と芸術性を併せ持ったトータルメディアの先達である映画表現と繋がることにより、加速度的に映像や動作モーションの洗練化が起こり、結果ビデオゲームからグラフィックからゲームシステムに至るまでのあらゆる側面での記号性が消えていった(変容していった)と思う。現行のAAAタイトルを思い出してみても、その強力なグラフィックや演出力がどれほどゲームメカニクスを越えて印象を変えてきたのだろうか?

 
 しかし2000年代の半ばも過ぎたころから2Dの8bit16bitリバイバルが起こったとともに、意識的に2Dと3Dを行き来するという、ビデオゲームのパラダイムの転換部分に触れる歪なビデオゲームが少なくなく登場してくるのだ。ここを掘り下げてくとインディペンデントから老舗任天堂までに及ぶ、ゲームデザインの一種の現代性が見えるんじゃないか?


◆90年代中期からの初期の3Dアクションやシューティングによる、過去2Dの再編



 

 90年代の半ばにPSやSSの世代になり、ビデオゲームが2Dから3Dへパラダイムが変貌した直後といっても「スーパーマリオ64」みたいに全ての3Dゲームが3D空間を活用したゲームメカニクスを起用したものではなかった。その時代に激変することになるアクションやシューティングでは、2Dでのフォーマットを使って3Dマップを生かすというデザインを当時では為されていたのである。

 例えばセガの「ナイツ」などは基本的には2Dアクションのフォーマットの中で、要所要所で3Dだからこそ可能になった奥移動のステージになったり、アクションの見せ方を変えることで3D空間の特色を表現していたし、ナムコの「風のクロノア」も基本2Dのジャンプアクションの基礎構造で3Dマップを踏破していく形にになっていたし、その他にも「トゥームレイダー」のクリスタルダイナミックスの「マジカルホッパーズ」(原題:「Pandemonium!」)も同様の構成を取っている。




 

 「クラッシュバンディグー」では基本的な2Dジャンプアクション構成にて、3D空間だから可能になった奥~手前を移動するアクションとして構成され、時に2Dアクションそのままのカメラとステージ構成に行き来したりする構成を取っていた。


 3Dを利用して2Dでの様々なフォーマットを包括する手法はシューティングの方面でもトレジャーの「罪と罰 地球の後継者」では徹底している。バンディグー的な手前~奥移動のシューティングを基調としてスタートするが、ステージが進むごとに縦シューティングから横シューティングまで変貌していき、最終的にはミサイルコマンドにまで及ぶシューティング史をひと繋ぎにしているかのようなデザインを行っており、wiiでの続編「宇宙の後継者」では落ちものパズルから擬似的に格ゲーにさえ展開されるほどの覆いようを見せているのだ。



 本格的な8bitリバイバルの流れ以前に、3Dにて2Dのフォーマットを利用して、2Dの様々な構造を包括して再現するというケースがとりあえず簡単に振り返ってみても散見される。3Dによってある種2Dのアクションやシューティングの構成の歴史を振り返るという側面も、時が経ち作品によっては色濃くなっていく。


◆2000年を超えて現在の2D・3D間の溝にある、ゲームデザインの現代的テーマ

 ビデオゲームの3Dと2D間の溝の中には先端技術とオールドスクール、過去アーカイブとその再構築、そしてリバイバルといったビデオゲームを取り巻く膨大な関係が潜んでいる。インディペンデントのアート・デザイン志向のゲームであれ、任天堂のように「初心者でもすぐルールが理解できるように」のメカニクス志向であれ、こうした2D・3D問題はゲームデザインにおいて奇妙にテーマとなっているかのようだ。


 また、こうした2D・3Dの溝のゲームデザインが頻発するのは、小島秀夫氏の言うような、グラフィックスからモーション、物理演算やオープンワールドといったビデオゲームの垂直的進化の方向を半ば放棄していることと無関係じゃないだろう。インディペンデントは人材や技術の問題で、任天堂はwii~wiiUの段階で機能的に前世代的の分、新味としてインターフェースから書き換えるという、傍目には凄まじくアヴァンギャルドな方向に行った。

 

 垂直方向への進化に行かなかった場合、クリエイティビティは過去のアーカイヴィング能力の強さを元にその文脈を今の技術で書き換えることへ向かう。インディペンデントは製作者自身の原体験が元であり、任天堂はそのまま会社の歴史がそのまま2Dも3Dも牽引してきたアーカイヴを元にしている。そしてインディペンデントのソフトのいち傾向と任天堂のソフトのいち傾向はその意味で一致しているかのようだ。

 2000年代中盤以降、8bitリバイバルが本格化していくにつれて、3D(今の技術や視座)で2D(過去のエッセンス再構築)表現はもっと露骨な形で提示されてくる。2Dのステージを回転させて別の視点にするという「スーパーペーパーマリオ」「Fez」などのデザインなどは、特に2Dの構造を弄りなおすだけじゃなく、過去のデザインからメカニックまでもエッセンスとして切り取っている点などだ。


 特に近年の任天堂はこの2D・3D間のクリエイティビティに異様なくらいウェイトを置いているかに見える。「神々のトライフォース2」で見られるような、もう出来上がり切ってる2Dアクションをなお3Dや別のインターフェースで切り取ることや、「スーパーマリオ3Dワールド」のような3D空間をまるで2Dのステージ構成のように見せるようなデザインなどなど、もはや任天堂内で完成しきったジャンル構造を任天堂がさらにどうにか書き換えようとしてるこの試みは、オレにはもう、ある種、今後のインディペンデントのクリエイティビティを先行しているとしか思えない。あまりに現代的すぎる。


 ここでいう「現代的」とはこうだ。現代アート的な許容範囲を多様な価値を表現するインディペンデント勢が突いてるのに対し、任天堂のゲームメカニクス優先の拘泥の仕方は、長い歴史によって培われた楽理を元にして、楽理から解き放たれ新たな音楽たろうとするクラシックの現代音楽的。


 ちょうど佐村河内守問題で半ば現代音楽ってのはクローズアップされたわけだけど、現代音楽の”現代”性って通常のクラシックの作曲の構造を元にしたうえで、その構造から自由になろうとする・書き換えようとする試みが主だ。ゴーストライターだった現代音楽家・新垣隆の作り上げた音楽などを聴けばわかるようにそうしたクリエイティビティが発揮されている。





 個人的な今の任天堂のクリエイティビティを見ている気分。協奏曲の構造の中に朗読や童謡封など差し挟まれることで数多くの楽曲構造をパッチワーク。


 任天堂にはビデオゲームの物語問題は意識的に行っておらず、どこまでも培われたゲームメカニクスやデザインを元にしながら新たに作り上げる試みゆえに現代音楽的な道筋に似てる。音楽もどんどん技術進歩や環境の変貌によって音響そのものを魅力にしていくテーマになってるのに対して、クラシックでの現代音楽のクリエイティビティはそこではなく歴史の中で培われた楽理の構造から新たな音楽を切り開くのが先だからだ。


 2000年代中盤のwii以降ではビデオゲームの垂直進化面から別方向に行ったがために、残されたのはその時点までに積み上げてきたゲームデザインの歴史やメソッドを元に構造を書き換える方向だったと思う。オレはそこから任天堂のゲームデザインの(ある種奇怪な、異様な)現代性が発生したかに見えるのだ。

 ビデオゲームで2Dと3Dを行き来させるデザインが現代的と思うのは、行き来させることで2D3Dお互いのジャンルの構造を露呈させるメタフィクショナルな側面があまりにも強いからだ。AAAタイトル的な垂直進化から離れていった任天堂は、見方によってはクラシックの現代音楽のクリエイティビティの如き現代性を発揮しているかのようだ。
 
 

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4.ゲームメカニクス&デザイン」カテゴリの記事

コメント

「枯れた技術の水平思考」と言ったのは横井軍平さんでしたっけ。それが今や「水平進化」を目指してるんですね、任天堂は。なるほど。
任天堂というと職人的なイメージを持たれることも多いですが、世界のAAAタイトル群に負けないテストプレイ重視スタイルだったり、厳しい開発チェック体制だったりと、意外と理知的で先進的な工業スタイルなんですよね。日本パブリッシャが海外外注や共同開発にことごとく失敗している中、任天堂は確実に良作に仕上げているし。
そんなところからも現代的さが確かにかいま見えるかも。

でも何故ハードはあんな出来になってしまったんですかね?3DSもWiiUもコントローラーから何から何まで遊びづら過ぎますよ。ゲームソフトはあんなにユーザビリティなのに。。。

記事の内容は正直、あまりよく理解できたとは言えませんが、
マシンスペックの向上によるグラフィックやインタフェースの進化が、
ゲームとしての面白さに繋がるような
ある種の信仰がPS~PS2にあったような気がします。

でも現実には、今の時代でもファミコンのゲームは面白いし、面白いと感じる。
現に、ロックマン9とロックマン10がファミコンのクォリティで作られて販売された。
それが評価されたのは、PS3やXBOX360にとっては、
最大の皮肉だったのかもしれない。

この『面白い』がマシンの性能ではなく、あくまでゲームデザインによってのみ
発生することを任天堂は理解しているし、理解しているから過去の作品の骨子を、
現代の技術に組み込むことで普遍的な面白さを追求している。
それが『現代的』ってことなのかなぁ?

でも、枯れた技術の水平思考がいつまでも通用するとは思えない。
WiiUとか、3DSの評判をみるとね(自分は触っていないからこれ以上、どうこう言う資格がない)。
というか、枯れた技術の水平思考と同時に、
新しい『理論』が求められているのかもしれない。

いつもインディーズ界隈など、詳しくない分野を開拓するため拝見させてもらっています。
最近はアニメのブログも始められたようで、こちらの更新が少なくなるのかと心配していました(^-^;

今回の記事は主に三人称視点のアクションゲームについてだと思うのですが、興味深い内容でした。
特に90年台の作品については少年時代の思い出でしたので。

ただ「ナイツ」と「クラッシュ・バンディクー」について思うのは、
記事でおっしゃられているリバイバルの系譜の先駆者ではないうえ、
意図的な3Dでの再現ではないように感じます。
(見た目の「2Dフォーマットを用いた3D作品」としては同意見なのですが。)

どちらかというと、「時代が3Dを求めるので、あり物の2Dフォーマットに取り付けて応用した」という、
時代や周囲の強い要求を満たす方向性で作られたにすぎないのではないでしょうか。
この2作品はリバイバルの系譜ではなく、垂直方向(ここでは3Dゲーム)の進化を目指した作品なのだと私は思います。

「マリオ64」が突出した垂直方向の進化を提示したので霞みがちですが、
ここでの「ナイツ」「クラッシュ」両作はリソースや技術の制限の中、
苦心して2Dから3Dへの垂直方向に創りだされた作品だと私は認識しています。

その意味で、記事中の「現代的」な作品たちと見た目は似ているけど、
制作中の精神は真逆の方向だったのではないかと思うのです。
3Dゲームが確立されていない時代に、2D構造の再現など言ってられなかったのではないかと。
その意味では「罪と罰」あたりの時代については記事で言及されている「再現」に同意見ですねー。


余談ですが、任天堂が2Dと3Dアクションを確立させた一方で、
いまだにその手法を磨き続けるしかないというのは、なんだか物悲しい気がします。
現状を良く言えば、「Wii以降はアナログを含めたゲーム手法の構築を目指している」のでしょうけど・・・。

インディレベルの良き手本程度に収まらず、
FPSゲームの文脈を打ち破るようなモノを見てみたいのですがねえ・・・。
などとPS4でアサクリ4を遊びながら任天堂に思いを馳せる次第ですw
長々と失礼いたしました。

>sabooさん

横井軍平氏の名言は印象深いですが、
任天堂は64のころまでは垂直進化方向に意識があったと思います。
ゲームキューブくらいから垂直進化競争に陰りが出始めましたが、
wiiあたりで水平思考化に加速付きましたね。

wiiってファミリー路線だとか健康器具だとか揶揄多いですけど、
あれ振り返るとどう考えても「新たな遊びを考える」ということがぶっちぎれてる
ヤバいゲームもけっこうあるので再評価したいすね 「キキトリック」とか「安藤ケンサク」とか。

>paperdriver さん

当ブログで使用されている「現代」という単語、
これは現代アートだとか現代音楽のように
凄まじく歴史と技術が醸成したジャンルで起こる、
もう純粋な進歩や開拓というのが完結しつつあって、
それでもなお新たに何かを生もうとする際の
クリエイトのありようを表すために使用しています。

どこまでをアートの新たな美に含んでいくのか?
どこまでを音楽の新たな美に含むのか?というような感じで、
どこまでをビデオゲームの新たな快感や美にしていくのか?というような。
すんません!わかり辛くて。

任天堂の純粋なビデオゲームの進歩や開拓運動は64で終わっていて、
そこからPSやXBOXなどHD機にその立場を奪われて以降、
個人的にwiiが先行していたのは「ゲームを誰でも同じスタート」と
言いながら、実際よく見るとダイエットすら含めて「どこまでを遊びに含むか」という
すげえアヴァンギャルドな側面だと思います。

で、そのあたりから記事中にあるようなマリオはじめ2D・3Dの構造崩しみたいな
方向まで突入していったという。
いまやインディペンデントなどでこうした試みが少なくない中、
2006年2007年あたりからこういうビデオゲームの現代化が始まってて
振り返れば任天堂が率先してやっていたのでは?と想像します。

>つちのこさん

そうすね、「ナイツ」や「クラッシュ」の当時の立ち位置はおっしゃるとおりです。
とりあえず初期の3Dアクションの構成という面で取り上げました。

本記事で言及しそびれましたが、「FPS」というのはゲームメカニクス的に
最初から主観で立体的な空間を探るという形式上、そもそも2Dも3Dといった楔がないという。
今やグラフィックスからモーション、オンラインに至るまで
「タイタンフォール」にまでたどり着くほど時代の進歩を反映してます。

やはり3人称のアクションやシューティングになると、急速に2Dと3Dの境目から
ジャンルの構造それ自体に触れるようなクリエイティビティが爆発します。
特にそのパイオニア任天堂の2000年代以降の価値ってのはそこだと思ってます。
コメント書きながら思いましたが、やっぱ任天堂の垂直進化は64まで。

確かに任天堂は64あたりまではハードの性能重視のうえに拡張機器も出してハードの性能を底上げしたりと垂直方向に力を入れてもいましたが、wiiから完全に方向転換でしたね。

「安藤ケンサク」にしろ「wiifit」にしろ任天堂の発想はとても良いと前から思っていました。たとえばキネクトがwiiUに付いていればMSよりも新しい遊びを提供してくれたと思うんですよね。
3DSも立体視が無ければもっとジャイロやカメラを使って、VITAの「グラビティデイズ」のような新鮮味のあるゲームをじゃんじゃん出してくれただろうし。

ただソフトの現代美術並みの先進さに比べて、ハードの旧態依然さが怪しく見えてくるんですよね。
「先進さを持つ老舗」という矛盾が引き起こす問題構造がある気がしてきます。wiiUの次でそこを解決できるのか?が肝にもなりそうな。

何はともあれ任天堂のヤバいタイトルには要注意ですね。

>saboo さん

任天堂はハードが垂直進化面から降りたからこそ、
ソフト開発の方向が数々の文脈から構造を変える方向になったという認識ですね。
HD機が徹底して進歩の方向を目指す場合は
「アンチャーテッド」などのそれになるわけです。

WiiUはいまいちコンセプト絞り切れてない感じあるせいで、
もう言われ過ぎてることですがコアゲーマー意識してるのか
ライト路線で行きたいのか時代の情勢の中迷ってる感じします。
Wiiのころの「ファミリー路線であり同時にアヴァンギャルド」という
(今思うと)奇跡的状態と比較するとですが。

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