ファイナルファンタジーⅦとクーロンズゲートによる人格分裂・カルト・ネット・世紀末まみれの90年代プレイステーション
あの90年代の切羽詰まった憂鬱はいかに生まれたのか?そして終わったのか?
90年代初頭には栄華を誇っていた任天堂のカウンターとして切り込み、単なる娯楽やおもちゃのレベルだったゲームと言うジャンルをニューメディアとして捉えた、ソニーのプレイステーションの初期は、もう本当に玉石混合の、実験的でもある様々な可能性を含んだゲームをリリースしていた。そこがもともとゲーム屋ではないソニーと、長らくゲーム屋だった任天堂やセガのハードでリリースされる作品の違いになったと思う。
しかし、90年代の折り返しの1995年のオウムのテロや阪神大震災以後、世紀末へ向かう時代と世相がそんな最初のプレステが行っていた新たな可能性の時代と混ざり合ったとき、そこにはもうアクションもアドベンチャーもRPGといったジャンルが意味を為さず、正直ゲームとしての完成度にも疑問符が付きながらも、忘れるがたく印象深い、あの時代でだけ成立した悪夢的なゲームが多く生まれたのである。今回は最大の代表作「ファイナルファンタジーⅦ」から最大のカルト「クーロンズゲート」などをメインに、90年代後期の時代を形作った悪夢の要素を含んだプレイステーションのゲームたちをオレの個人的なチョイスで振り返る。あの90年代を再び。
さて、今は懐かしく、MMRもとっくにネタになったように、1999年に世界が終わるというノストラダムスの大予言は知っての通り何も起きなかったが、しかしその数字の並びの禍々しさや、先述の95年の人災と天災の二つを経て、あの時代は世紀末へ向けて加速度的に重苦しいムードが漂い、それが作品に付加されていくこととなったのである。 (その意味で奇妙にも思うのだが、まるでこの頃のリメイクのように今「マヤ文明の預言により今「2012年の世界の終わり」が喧伝されるも、この頃との決定的な差に、そうしたムードが印象に残らないことがあると思う。(かなり世紀末的な事象が起きているに関わらず)。それが何故なのかも同時に比較してみたい。といっても、オレ個人の印象だけなのかもしれないが。)
90年代がいかにプレイステーションの作品に凝縮されることになったのか?というのも当時はマルチメディア時代というのが叫ばれ、映像や音楽やゲームなどただ一つのメディアが再生できるだけではない、複数のメディアを繋げたものが求められ、今でこそスマートフォンの普及やインターネットを中心にマルチメディアであることは当たり前になっているが、例えば上のCMを見てもらえれば当時の空気が分かり易いかと思うが、松下電器の3DOなどがゲーム機というよりもマルチメディア端末を名乗ったりしており、Windows95の発売によってインターネットが一般に普及し始めていく時代で、現在にも連なる急速なメディアの垣根を越えていく流れが90年代の前半よりあったのだ。
初期のプレイステーションがフックとしていた部分にゲーム機である以上のそうしたマルチメディア化の意識があったと見え、ソニーの豊富な販売戦略の他にオレが当時のプレステがセガサターンや任天堂の64との質的な違いがあったとすれば、当時のゲームにおいてITメディアの発達によってさらに加速するその流れの先鞭を取っていたことにあると思う。
一歩間違えればマルチメディア機を名乗った3DOはたまたプレイディア(「やるドラ」シリーズとかプレイディア的なゲームもあったなあ)にもなりかねなかったと思われる初期プレステだったと思うが、任天堂から覇権を取るほどの浸透に成功させたことで、ゲームの流れにマルチメディアの時代の流れを繋げることに成功させたと思われ、それが結果的に様々なジャンルが混ざり合うという作品の混沌した表現にも繋がっていき、さらにそれが当時の世紀末的な世相が混ざり合うことによって、今回取り上げる作品のような悪夢的なゲームがたびたび生まれたのである。
これから例に挙げていく作品に凝縮された、そうしたあの90年代の時代空気を構成していたものとは、思うにざっくりと分けてしまえば概ねこうしたパターンであったように思う。
A・多重人格・分裂症・統合不全症・記憶喪失などの人格障害を中心とした、俗流の心理学用語も作中に登場さえする精神や内面に向けられた物語
B・現代・近未来な頽廃した光景を生かす、当時のマシンスペックによる3Dグラフィックでの描写や表現の実践
C・初期の発言者の匿名性や表に出ない怪情報を提供するアンダーグラウンド・メディアとしてのインターネット
D・カルト宗教・疑似科学の暴走
E・世界の終末を目前に控えている
F・ゲーム文法を意図的に解体した作りで、ジャンルがなんなのかがわからない
G・アニメ・小説・実写による他メディアでの表現、また一つのゲームに様々な他ジャンルを混ぜ込む、統合不全的なマルチメディアの混沌
以上の要素を踏まえた、オレが思う90年代が凝縮されたプレイステーションタイトルが以下になる。ゲームが映像をはじめとしたさらに高い表現力を持とうとし、また単なる遊びの枠さえも作品によっては取っ払おうとしていた時代の中で、以下の要素が複合して絡んでいくことが、あの時代のプレステの作品の悪夢性の中身なのだと考えている。
「ファイナルファンタジーⅦ」
内包している要素:A・B・D・E
まず誰でも知ってる超メジャーから。ゲームメディアの簡単な「RPG最高の作品ベスト10」みたいな企画だけでなく、やっぱこういう視点の企画でもこれは代表作だろう。
「ブレードランナー」の影響下にあることはオープニングのミッドガルの光景や近代都市にアジア性が混入する都市デザイン、企業が支配する世界観、BGMなどから言うまでもなく、「AKIRA」などの影響(身体に刻印される番号だとかミッドガル脱出のバイクでのチェイスだとか)などなども垣間見えるが、当時の初々しい3DCGで構築されたミッドガルはじめゴールドソーサーなどの都市光景、そして主人公クラウドの記憶や人格、存在を巡るサイコロジカルな方向に振り切った物語、唐突に退場することになるヒロイン、半人造物であったものが最終的に神になり、強烈な信仰の対象となっていくセフィロス、星の生命の終わりに目覚めるウェポンと呼び覚まされるメテオによる世界の終わりを控えた光景などなど、前作FF6との符号も見られながら、完璧にFFシリーズの80年代のRPG的なファクターを断ち切り、実に世紀末的な90年代的なファクターで彩られている。
ビッグタイトルゆえに毀誉褒貶が激しいが、そうした時代性とともに、主にグラフィックの進歩に加え、ここがやっぱ大事なんだが遊びこめるRPGとしての完成度も両立させ、セールスも成功させたタイトルというのは唯一であることには違いない。以下に続く90年代の気配の作品ってのはセールス的に、あるいはゲームとして厳しい、基本取っつき辛いカルトなものになっちゃうから。
発売から10年しても、その奇跡的な出来ゆえの人気から映像作品まで含む様々なスピンオフや続編が生まれたが、この時代でのみ成立していた陰鬱さまではどれも継ぐことはなかった。それは思うに先に挙げたあの時代を形作っていた要素が時代が進むごとに無くなっちゃったり、当のプレステのマルチメディア機というのもプレステ2時代にはかなり完成された形となり、FF7発売当時の技術やトレンドを上回ってしまったからだとオレは思っている。
「ゼノギアス」
いくつかあったと言うFF7の設定案を元にし、「裏FF7」とも呼ばれた、現モノリスソフト高橋哲也氏の代表作にして問題作。
当時から新世紀エヴァンゲリオンのパクリと言われ、実際に酷似した演出も見られ、影響はあると思うが(たとえばエヴァ後半の幼少のアスカが母親にエヴァのパイロットに選ばれたことを伝えるために走っていくも、ドアを開いた瞬間に首を吊った母親のカットが繰り返されるシーンと、上の動画にもあるようにエリィが薬物投与から逃れるために廊下を走り、追い詰められるカットが繰り返されるシーンなど)、これは思うにほぼ作り手が同世代であり、食ってきたSFの趣味からロボットアニメを中心に、学術の範囲に至るまでまでほとんど同じというのもあると思う。
今エントリの文脈において、オレがゼノギアスで最も際立っていると思うのは兎に角、2Dキャラと3Dマップ&ギアという画面構成から、RPGに格ゲー風のコンボコマンド、アクションゲーム的なマップ、ロボットバトルといった異なるジャンルを次々と混ぜ込むことや、映像表現に置いてアニメとのミックスからプリレンダCGムービー表現はじめ、西欧RPG的な土壌の上に数々のSF&ロボットアニメの引用からユング系統の心理学、聖書、ニーチェのミックスによる世界観、その割に少女漫画的な転生を繰り返す主人公とヒロイン、そしてFF7と同じく主人公の人格の分裂、記憶喪失など、映像、世界観、ゲーム構成からストーリーテリングに至るまで、ありとあらゆる他ジャンルを混入させるマルチメディア的混沌を見せたRPGだと言うことだ。
それゆえ印象深く、少なくない人がこうして足し算で作られた作品ゆえに起きただろうディスク2の出来などを持ちだしたりしてリメイクの声を上げているのだが、オレは思うに本作が今の技術で洗練された形でリメイクされたとしたら、この当時だから可能だった混沌の面白さの部分も損なってしまうと思われる(まあリメイクで当時の一回性の空気の再現までも求めるのは酷なんだけど・苦笑)。
「クーロンズゲート」
内包している要素:A・B・C・D・G
1997年というのはオレにとってはFF7と本作クーロンズゲートの2本によって、90年代のプレステの大部分の要素が凝縮された年だ。当時に限れば、FFの対称はドラクエじゃなくて、FF7の対称はこのクーロンズと思う。セールスは雲泥の差だが。見方偏ってるか?偏ってるな!!
FF7との対称と言う意味ではこちらもまた「ブレードランナー」を追随したと思われ、近未来都市&アジアンゴシックを3Dで描写するという共通点がある。が、こちらはさらに疑似科学に風水思想が混ざり合うというカルト宗教的な世界観、主人公に匿名で情報を提供してくる初期のインターネットなどの光景、そして自我を失っていく登場人物たちなどなどが当時の技術の過渡期である、目新しくも不気味であるCG表現と混ざり込むことによって、本作は90年代後期のビデオゲームのある側面を濃厚に凝縮して見せたと思う。
まだ人体のアクションを滑らかに表現するモーション・キャプチャーも使われてなかったから動きをつけるのになんと文楽を参考していたというんだから、独特のムードにはそうした3D映像技術の過渡期の現状も要因にあったと思われ(まあ俗に描写が半端である故に気味悪くなる「不気味の谷」と言われるもの。あの当時は「Dの食卓」などなど人物はそんなのが多かった。)、そのぎこちなささえも意図的に演出したことも本作の特徴だろう。
特に初回限定版に付いてくるブックレットを読むと、その物語から3DCGで九龍城を再現することの方法論、取り扱われる風水やネットというモチーフに関して布施英利氏らによる批評・評論が行われており、当時から製作サイドはゲームとしての評価というより、意識的にインタラクティブ体験やマルチ化のようなメディアの時代の変化や潮流といった文脈でクーロンズを推しているのである(なんせ、今エントリみたいな「90年代という時代性」までも90年代にて行っていたりする評論まであるので異様だ)。
その意味でこのブックレットで取り上げられている評論は、このクーロンズに限らず、当時を取り巻いていたコンピューター・グラフィックス表現から、それで描かれる東洋思想と科学が混ざり合う光景というモチーフの意味など、今回取り上げている近い表現を持っているFF7をはじめとした作品群にも適用できるのである。
そして特筆すべきは同じく1997年、現実の香港が中国に返還されるというタイミングを持って、時に暗部とさえ言われた九龍城砦を禍々しくCGで再現し、それを冒険の中で見立て、再び封印しなおすという物語をリリースしたというタチの悪いシンクロニティだろう。そういう部分でもどこまでも当時の時代的な作品であり、いまもってこの作品の精神を継承するものは無いのだ。
「プラネットライカ」
内包している要素:A・D・F
木村央志・井上幸喜らクーロンズゲートスタッフによって立ち上げられた「是空」の、最初で最後の作品となった怪作。ここでクーロンズの双子のモチーフを引き継いだ上で、主人公ライカの狂気と内省による多重人格をメインにした物語にしたものだ。
「火星が主人公の意思や記憶に呼応して幻想を見せる」というSF単体のオリジナリティはそれほどないんだが(これは取り上げてる他のSF寄りの作品でも言えることではあるが、精神や内面を描こうとしたニューウェーブSFのような純粋なエンターテインにし辛い内容がゲームにされた時代であるとも言えるか)、実際のゲームの異様さはそういうインスピレーション元から逸脱するかのようで、「サイコドラマRPG」を名乗っているが木村央志らの基本的なRPGのジャンル文法の無さ(つうか作る興味がほぼ無い)も相まって生まれている。例えばRPGの華であろう戦闘シーン。「火星の悪意から精神を守るための闘い」とのことだが、その内容はこのゲームをやった人なら分かってくれると思うがもはや説明困難である。「簡潔に言ってしまえばブロック崩しのような感じ」といってもRPGでなぜ?と言われればもう黙ってしまうほかない。
火星と、そこに住む人間の精神を反映するというのはカート・ヴォガネットの「タイタンの妖女」や、スタニスワフ・レム「惑星ソラリス」などなどが元なんだと思うが、それらの小説や映画の持っている淡さとは全く別の何やら下品でけばけばしい気配や、登場人物の言動や人格がまるで一定しない描写はどちらかというとウィリアム・バロウズのカットアップで作った小説(雑誌や新聞の文を切り貼りして文章を作るという、えーっと分かり易く言うと携帯やスマホの予測変換だけで繋げて小説にするような文章で、意味を解体し混沌を生む文体の方法です)、「裸のランチ」なんかを3DCGで立ち上げてしまったかに見え、それに先の戦闘システムみたいなものが加わることによる混沌とした印象を残す物となっているのである。
しかし木村央志のバックグラウンドはゲームじゃなくてペヨトル工房出版の奇書や80年代に流行ったニュー・アカデミズムだったりするというのが良く分かる作品だ。(なんせクーロンズゲートでも「ガタリ」とか出てるように、ドゥルーズ&ガタリの精神分析批判をはじめとした、人間の精神まで含むあらゆるジャンルの記号化・体系化に反抗する哲学書「アンチ・オイディプス」などの用語の引用してるくらいだしな!)
この作品を最後にコンシューマーでの木村央志作品は出なくなり、PS2の「真・女神転生Ⅲ」の世界観・シナリオ設計などに関わるが、一線から離れていくことになる。そして実際にこうした作品というのさえも無くなっていく流れになっていくのだった。
「リンダキューブ・アゲイン」
内包している要素:A・E
オリジナルはPCエンジンで、セガサターンには完全版として発売されており、厳密には「90年代プレステ枠」とは違うかも知れんが、プレステのソフトで初めて、CEROによる年齢区分が無かった当時に残虐描写が含まれることを示すあの△マークのシールが貼られた作品でもある、世界の終わりまでに動物を箱舟へと集めるRPG。この企画で例に挙げる作品の中ではおそらくゲームとしては最も遊べる作品だと思う。
天外魔境Ⅱの桝田省治・岩崎啓真による本作は当時の大作RPGへのアンチテーゼとして製作されたとのことだが、やっぱゲームの文法を分かっているプロだし、プレステ時代は先のクーロンズゲートなど、元々ジャンルゲームを作ったことの無いと思われるクリエイターの作品のような完全に文法を無視するような作りにはせず、プレイヤーの探索と想像力を喚起させるRPGのジャンル本来の面白さに回帰したように見え、FF7以降のRPGがゲームのルールで遊ばせるというより映像表現やテレビアニメ・漫画の進行を元にした物語表現に拘泥していくようになっていった中ではアンチと言うより非常に伝統的な意識で出来てるように感じる。
とはいえ、パラレルワールドで分かれたほぼ一本道で進むシナリオの内容がクーロンズやライカの如く狂気の双子の殺人鬼であったりクローンであったり、実にここで取り上げているゲームと共通するモチーフを取り扱っており、ドライな田中達之のキャラデザインとも相まって世紀末的な気配に満ちた作風となっているのである。うーん、一番ゲームとして出来がいいゆえか逆に語り辛いです(笑)
「アクアノートの休日」 「太陽のしっぽ」
内包している要素:B・F
飯田和敏の初期PSの代表作2本。プレステ初期には音楽や映像などへのアプローチを行ったこうした試みのゲームが多かったが、その意味での代表ということでも本作を取り上げて見る。
ジャンルとしては深海探索ゲーム・原始人の生活を体験するアクションゲームという本作だが、アンビエント・ミュージックや現代芸術的なゲームのジャンルや記号性を超克する方法論を過渡期のCGメディア表現にて実践したという意味が強く、実際の内容は漠然と深海や草原を探索するものかと思いきや、要所要所で当時のエイフェックス・ツインみたいな不気味な印象を残す音楽が流れたり、単純な深海探索や原始人の探索の世界観とは別だろう奇怪なオブジェが配置されているのを見つけたりと、当時の可能性を探ったメディア・アートというべき思索的な作品になっている。
この手法の異様さというのは夢の中を探索するというカルト的な「L・S・D」などにも引き継がれたと見え、こうしたアンビエントな空間環境を全面に生かす方法というのは初期の過渡期の3D空間表現の一つの実践だったと思われ、それは後の上田文人作品「ワンダと巨像」や、最近の陳星漢(チェン・シンハン)作品「flOw」「Flowery」「風ノ旅ビト」などがこの方法論を発展させていると思う。
この作品から10数年後に、90年代ファクターに満ちた「エヴァンゲリオン」が完全にまっとうなジャンルアニメに回帰しようと新劇場版になったのもびっくりながら、アクアノートの飯田氏がそんなエヴァの新劇版のゲーム化に着手し、しかも音ゲーにした『エヴァンゲリオン新劇場版-サウンドインパクト-』をリリースすることになるのもまたびっくりだった。
「シルバー事件」
内包している要素:A・B・C・G
須田剛一率いるグラスホッパー・マニファクチュアの代表作。ヒューマン在籍時に青春ホラー「トワイライトシンドローム」を真っ向から自我を掛けて潰しにかかり、また97年の神戸少年連続殺人事件の発生により規制がかけられたという「ムーンライトシンドローム」の世界観・時代観を引き継いだ作品であり、本作の物語にも繋がっている。
主人公が警察となって、歴史的な連続殺人犯ウエハラカムイを追う物語を軸としながら、都市で起きる事件を解決していくという、ジャンルとしてのアドベンチャーの王道のような背景であるが、グラフィックデザイン・アニメ・実写・CGムービーのマルチメディア的混沌の表現や、各話によってガラリと変わる映像、そしてもう一人の主人公のライターによる、事件を俯瞰して見つめる側の二つを、エピソード選択画面のターンテーブルのようにミックスさせて事件を見ていくという構成を取っている。
今作もやはり人格や内面に関わる物語が中心であるが、オレがポイントに思うのは人格の障害や犯罪の発生の根幹には最終的に社会構造や背景によって捻じ曲げられていくという部分に行きついていくことであり、そのおかげで真実と事実の認識さえも歪められていくことになる。後半に行くにつれややSFめいてさえいるのだが、90年代プレステ作品に見られるの人格障害と犯罪というものの発生の背景として、当時のネットも含む都市と社会システム、政治情勢によって翻弄されていく登場人物を描写している点が大きい。FF7でもゼノギアスでもlainでも、障害が発生する要因にそうしたシステムが構築されている近未来社会を舞台としているのは偶然ではないだろう。
そして何より須田剛一作品に付加される最大の部分とは、後の作品にも通じる奇妙なほどの死の気配の描写であり、死んだ登場人物の残像が意識に残り続け、精神が苛まれるというシーンの数々は特に異様だ。今回取り上げてきた90年代プレステ作品に見られる要素はPS2に映っていく時代の中で大抵が無くなることになるが、2000年に入ってからも「シルバー事件」の表現の意思とテーマは「killer7」に引き継がれていくことになる。
「serial experiments lain」
内包している要素:A・C・F
TVアニメとしてもカルト的に有名な作品であるが、このゲームの異様さは完全に物語や人格データベース化した痕跡をゲームを端末として見立てて閲覧していくというメタフィクション的な構成にある。そこが何より現代的であったと思う。
家庭に問題を抱え、幻聴と幻視の症状を持つようになってしまった玲音と新米の心理カウンセラー・柊子とのカウンセリングの過程を再生していくこと、フラッシュバック的に事件の凄惨な結末の映像が差し挟まれること、そして玲音がインターネットの場に存在意義を見出していくことや、柊子がカウンセリングの中で自身の問題がかかってくることでによって自身が苛まれていくことなどの、玲音と柊子のふたりの人格の内面と分裂の痕跡を追っていく流れをはじめ、1998年当時の浸透し始める時期のインターネットの、コミュニケーションの質的変化や個人の実存に関しての質的変化といったアプロ―チがメインとなっている。
特にこの作品は意識的に個人の破綻していく精神の痕跡をひたすらデータベースにしていること、そして最終的にデータベースにしていることの逆転的な使い方などなど、同時期に日本映画でネットを題材に近いアプローチを取っていた岩井俊二の「リリィ・シュシュのすべて」や黒沢清の「回路」などなどがあったが、オレはビデオゲームというメディアで再生すると言うプロセスをもってそのテーマのシリアスさを本作はそれらよりも一段上の完成度を持っていると思う。
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以上の90年代の空気を凝縮させたと見るプレステの作品群は、どれも陰鬱な・不気味な内容でありながら、物語にしろ明確なハッピーエンドまたはバッドエンドを迎えたのかさえも不明な出来であるのもしばしばで、そこに至るまでの分裂した人格や実存を巡る物語や、過渡期のCG映像表現とマルチメディア表現に見られるあらゆるジャンルが混ぜ込まれる混沌とした表現をプレイヤーが体験していく過程により強烈な印象を残すことで、未だにファンからリメイクの声が上がっていたり、また製作サイドよりリメイクや移植の話が上がるのを見かける。
だがオレは、そうした強烈な印象に反して、先述の90年代の世紀末性を構成していた数々の要素も時代の中で無くなり、変わってしまったことで、仮にリメイクが実現されたとしてもまったく別の意味にしかならないと思うのである。あの90年代性がいかに終わったのか?を各要素ごとの顛末をオレなりに振り返ってみても以下のようになるのだ。
A・多重人格などの問題は、とりあえずゲームでの取り扱いに限っては、他の要素が洗練されることで、マルチメディアの混沌や初期の3D表現のたどたどしさによる分裂症的・統合不全的な気配が失われたなどで映えなくなった、と見る。(他メディアでの衰退理由はどうなんでしょう?)
B・3DCG表現の技術的洗練によって、映画の表現のレベルにさえも辿りつくほどになったことで、初期の人物描写の「不気味の谷」的な異様さやは無くなり、ニューメディアとしてのCG表現の実験的な思索段階も終わったから。
C・インターネットは当時まだまだ普及し切っていないおかげで一部の人間によるアンダーグラウンドな印象だったが、コミュニケーションの前提も変えるのではと思われたが、いまや携帯やスマートフォンでさえも接続可能なほど普及したことや、ツイッター・フェイスブックなどのSNSの発達による匿名性に関しての意味も変わったこと、生活に当たり前のように存在するようになったことで一般的なものになってしまった。
D・オウムの事件を経て、宗教や疑似科学などマスメディアなどが取りあげるのを避けていくようになったり、またUFOだとかミステリーサークルだとかの疑似科学もリテラシーの上昇によりウソを暴かれるようになり(最初期の「トンデモ本の世界」など)、カルトが衰退した。
E・例によって1999年には何も起こらず、また他の要素との複合によって「世紀末性」は霧散した。
F・ゲーム性解体は単純に商業的に振るわず、また新たなメディア表現もひと通り答えが出ることで下火になる。
G・マルチメディア表現もまた洗練され、結局のところ、最終的に総合芸術と呼ばれ、マルチメディアの最高峰とも言える映画にどんどん近づいていくこととなり、またプレステの方も次世代機ではDVD再生からMMOによるネットゲームの発展などなど他メディアの混合も洗練されていくことになる。そのことによってカオスな気配が無くなった。
これらは有体に言ってプレイステーションが「2」になった時の変化のほとんどといってもいいかもしれない。それは今回取り上げた作品やクリエイターの次の作品になった時に何が失われたのか?をも測れるかもしれない。FF7のあとのFFシリーズ。ゼノギアスのスタッフがスクウェアを出た後の続編・ゼノサーガ。それらが内包していた90年代の要素の何を失ったのかも、直後の続編に顕著だ。
90年代のこうしたビデオゲームを中心としたメディアというのは、今のITメディアを中心としたマルチメディア化されたことが当然のようになっている時代の目から見ると過渡期であり、まだ完成形が見えていなかったころでそれゆえの進歩に向かうことになるのと対照的に、「失われた10年」という言葉に象徴されるように社会全体の発展は停滞することになり、今度はそこまでに構築されたシステムによる規律によって、個人の苛まれる精神や内面の分裂といった側面が取り扱われるようになるという二面性が反映されることによって、これまでに見たことのなかった先鋭的な気配を持つことになり、当時ほど極めてゲームが現代性を反映していたことは無かったとも思う。
その進歩と停滞の差し挟待った、切羽詰まった時代の気配というのはここまでに取り上げた作品をいまやり直しても感じられるのは確かであり、それがオレがマルチメディアの発展途上であった初期のプレステを通して見立てた90年代という時代だ。
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なるほど。
当時の荒廃的で終末的な雰囲気はゲームにもしっかり現れていたのですね。
自分も当時学生でしたが、エヴァンゲリオンなんてのも当時の時代背景があったからこそあそこまで熱くなれたのだと思っています。
阪神・淡路大震災での日常を破壊され荒廃した都市、
武器や化学兵器まで作ってしまうカルト教団オウム、明日にでも日本が終わってしまうような危うさを感じられました。漫画、BLAME!も大好きでした。
投稿: キタヲ | 2013年6月14日 (金) 11時57分
>キタヲさん
90年代後期ごろのサブカルチャー(このカテゴリー名は嫌いですが・・・)界隈での
この頽廃感というのが社会学などでよく議論されましたが、この記事はアニメや映画など他ジャンルが表現していた頽廃と別に、
裏のテーマとしてはインターネットの爆発的普及前夜の時代のマルチメディア時代というテクノロジー面も大きいです。
そしてそこに呼応しようとし始める家庭用ゲーム機というのが混ざった妙味というのが
この当時のプレステによく表れていたと見ております。
補足としてはこの視点はあくまで大メジャーな家庭用ゲーム機視点のさらに偏ったものであって、
広い意味での業務用ゲーム、PCゲーム界隈まで含めた意味の「ゲームの90年代」とは
今読み直すとと遠いことですね。
投稿: EAbase887 | 2013年6月15日 (土) 18時37分
FF7は私の人格形成期に大きく影響を与えたゲームですね。
しかし今では単なるキャラゲーに成り下がってしまい
続編を作り、純粋な思想性に対しては評価を下げたと思います
2012年の終末予言と1997年の予言はある種似通った状態にあったと思います
しかしその時、流行したゲームはパズドラなどの単純なゲームでした
ゲーム業界自体の衰退もあるのかもしれませんが、
日常に疲れてしまったことで未来を考えることすら放棄してしまったのかもしれません
友人などはゲームに夢とか息抜きを求めているようで
リアルなのはもういいかな(遠慮したいとゆうニュアンスです)
と、この言葉が世相を表していると思います
投稿: (命名)スマイルメソッド様 | 2013年10月12日 (土) 01時11分
>(命名)スマイルメソッド様
時代の気分、その当時のテクノロジーが表現できたもの、
(飽くまでも)家庭用ビデオゲーム界隈が次世代に進む際の
ジャンルの許容量の拡大それぞれの要因がかみ合い、
PS界隈で偶発的に独特のゲームが生まれ、しかも売れた(重要)というのが今の結論ですね。
ただまあ、90年代当時でも普通に「ポケモン」がヒットしていて
あんまり時代の気配云々が関係ない作品というのはむしろ普通ですし
「パズドラ」のヒットと時代の気配はまあ別ってことでいいんじゃないでしょうか。
現在のビデオゲーム界隈はそれは家庭用に絞っちゃうと
この時代のような緊張はないですけど、steamなどDLサイトからiosまで広く見ていけば
どっかしらに時代の気分が刻印されてるゲームはあると思いますし、
ここまでメジャー界隈で端的に凝縮されてるPS時代が異質ではないでしょうか。
そうはいってもやはりビデオゲームはテクノロジーの進歩と
ある種リアリティを追い求める限り、どこかで時代の気分を凝縮させる瞬間は現れるので
案外次世代機のPS4やXBOX・ONEの作品でパッと開花すんじゃないかなと思ってます。
「ウォッチドッグス」あたりが有力ですね。
投稿: EAbase887 | 2013年10月13日 (日) 05時03分
既にご存知かも知れませんが、
1999年発売の
『GARAGE(ガラージュ)』 キノトロープ
も、きっと気に入られるかと思います。
すごい世界観です。
投稿: あす | 2014年12月28日 (日) 21時47分
>あす さん
ガラ―ジュ、これはゲーム出来るほどPCにスペックが無い頃に
「これはやべえな」と路地裏の隅を見つめるような気持ちだった覚えがあります。
初期3Dグラフィックスによるギーガーもしくはクローネンバーグにインスパイアされたような
造形、それは本当に未だに素晴らしいですよ あの時代一点のもので
投稿: EAbase887 | 2014年12月30日 (火) 13時14分