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2011年10月15日 (土)

「記憶喪失」からの回復と、世界を再認識する映画・アドベンチャーゲームは何故「記憶を失う」のか?・Ⅱ

 第二回は前回のアドベンチャーゲームの記憶喪失視点を援用した、簡単な映画批評にシフトするという企画。今回は近年で「記憶喪失とその回復」というテーマでの良作ということで原恵一監督の「カラフル」とレバノン内戦時の記憶を探り直すという「戦場でワルツを」のもんのすごいふり幅ではある2本を、ゲームスコープサイズで見立てたエントリ。

 そうそう、このブログは基本的に結末に至るまで含めて内容について触れてるので、未見の方は注意。つーかもうこのエントリタイトル時点でばらしてるようなものと一応書いておきつつ、未見の方にも興味持てるような視点で綴っていく。

SCOPE・1「カラフル」  

 アニメや近年の日本製RPGではエヴァンゲリオンを挙げるまでも無く、まだ自我や客観などに関して発達の途上の時期であり大きな転機に当たる中学生から高校生くらいが主人公になる作品が多い。この辺はアニメ評論とか批評とかやっている専門の方やブロガーとかで「なぜ中高生の時期ばかりがアニメの題材になるのか?」とかって体系的にアナライズできる方に委ねたいとして、世界というものを、この言い方がクサければ自分が身を置く現実というものを成長と共に認識し直していく時期であるといえ、そこに折り合いを付けていくために葛藤する中にドラマツルギーが含まれる、というのが基本にあると思う。

 映画は記憶を無くした死者の魂という主観視点で始まり、一人のガキの天使に「現世の罪を人生をやり直すチャンスを与える」ということで、自殺未遂した中学生に乗り移ることでやり直す資格があるのかどうかを試すという物語だ。

 こうした導入によって「現世の罪を背負った」観客自身がとある中学生のとある環境と状況にシンクロし、主人公自身の世界を知っていくことで、行動していくことで認識していき、苦い現実を知りつつ適応していく形で、あの時代の発達をやりなおしていくみたいにして映画が進んでいき、現実との適応や肯定していく中で「そもそもの記憶を無くした魂の正体は誰なのか?」が明かされ、シナリオ的にはまとまる形となり、そこで観客が記憶を取り戻す過程とシンクロしていた発達の追体験も終了する。

 「カラフル」においての記憶喪失とその回復の過程。とはアニメで数多く起用されるそうした時期というのを観客に生々しく追体験させ直すという部分において突出した構造によって作られた作品だと思われ、今エントリのテーマである「記憶喪失からの回復・世界や現実の再認識」みたいな部分においても中学生の発達ということですごくハッピーで通りのいい結末になっているし、これはホント物語構造のみならず作画から色調に至るまでの映画表現はこれは大人の中学生再体験映画(おかしな文章だが)である印象でその実中学生に向けた文部省推薦感ってのは無いなとも思う。

 シニカルな意味ではないけど要のシーンで「人はみんな自分の色があって」という学芸会的にテーマを口に出しちゃうよくあるドラマとかクソみたいな日本RPGが平気で脚本に採用する鼻白むシーンがあっても、それがそこまで引っ掛かることはないのは今作全体を包むトーンが全体的に灰色掛かった色調であり、それは絵の具の色全てを混ぜ合わせた色がどうあっても灰色になるのに似て、現実を肯定し切れるほど自我が成熟もしていないあの時代の気分が基調にあり、環境や状況の中で自我やら個人やらを確立させていく過程である背景を描いているからだと感じた。

SCOPE・2「戦場でワルツを」

 これは「カラフル」と完全に異なり、アドベンチャーゲーム記憶喪失ネタってことでは、もともとのアドベンチャーが基本的に採用しているジャンルの形式であるミステリやハードボイルドなどの、さらにそれをもっと遡っての「主人公が世界を認識し直す冒険・探偵物語としてのハードボイルドの成立」としての戦争経験、というのを理解する意味で本作は興味深い。

 と、ここまでの「探偵小説の起源は戦争」説は確か作家・笠井潔さんの解説にあったと思い、ここからの論評はそれに乗っ取ってのものになるのだけど、その笠井さんの説をこっちが思い違いしているとか、すでに「あったと思い」なんて書いているくらいに危ういのだけど(笑)、本作の内容を見る限り「世界を、自身を認識し直す物語」の起源としての戦争、という意味で非常に納得いき易かった。

 「戦場でワルツを」は例えばアマゾンレビューなどではパレスチナ問題に関して大筋程度しか示されていないことや、レバノン内戦においてのパレスチナ側による視点が描かれないこと(これは「自らを探り世界を認識し直す」内面の物語構造上仕方ないことではあるが)など、確かにこのイスラエル映画がアメリカのアカデミー外国語賞で評価されたことも含めて中東のポリティカルな側面においての掘り下げは薄い。そうした弱点はありながらも、監督本人のレバノン内戦の体験であり、そしてこの映画自体がその時代のある部分の記憶を失った監督本人の回復のプロセスであることによって、現代においての内面を巡る物語の発端の一つとしての戦争体験という意味で興味深い。

 非常にナイーブな話題になるが、かつての戦争体験者は従軍後に明らかに挙動不審になったり行動がおかしくなっていってしまったのを「砲弾の破片が脳に食い込んだせい」という、俗に「シェルショック」と呼ばれる判定を下していたり、電気ショックによって治療したりというさらに悪化させるとしか思えない対処を為されていたが、その内に原因は戦争体験者の心の内にあるとして、フロイト式の心理療法というのが治療手段として使われるようになっていったという経緯がある。

 ここでハードボイルドのジャンルの大家であったレイモンド・チャンドラーなどの作家らが従軍経験を持ち、それが後に文体や視点に何らかの影響を与えた、という仮説から考えると、その実シナリオ以上に世界や現実というものを、ドライにかウェットにか見立てなおそうとするのかは作家によるにせよ、認識しなおそうとするスタンスとしても見れた、ということを思い出す。

 そうして、患者の内面に降りる・実人生を見立てなおすという精神医学の発達や近・現代の戦争の発達の中で、現代においての「世界を、自身を認識し直す物語」の原型というのは形成されたと見て、村上春樹からようやく本ブログのメインテーマの優れたアドベンチャーゲームに至るまでかつての戦争のシェルショックからの治療の残滓が残っているのだと見ている。アドベンチャーゲームが記憶を失う理由、それは戦争後遺症と精神医学により見出されただろう、内面を探り直し、世界を見立て直すための文体の一つたるハードボイルドなどを形式の一つとして採用したことなどが大きいようにも思う。

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