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2011年10月 6日 (木)

アドベンチャーゲームは何故「記憶を失う」のか?

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 ザックリと様々なゲームをやっている中で、特にアドベンチャーや時にRPGなどで「物語的に名作」とされる印象深い作品が「記憶喪失している主人公が、記憶を取り戻していくこと、物語を進める中で自身の真の記憶というものを知り直すこと」という構造を取っているケースが多々見られる。

 乱雑に言って3人称として触れるメディアである映画などで記憶喪失というのはとっくに使い古された題材には違いないのだが、1人称として触れざるを得ないゲームというジャンルの場合だからこそ非常にこの題材が強く機能するのだろうか?という考察で送る新ブログ・ゲームスコープサイズ第一回記事。

「Radiohead Paranoid Android 」

 記事トップの「ファミコン探偵倶楽部」などをはじめ、「ヘラクレスの栄光Ⅳ」から「FF7」、そしてとてつもない結末によって逆転させる「Ever17」から、グラスホッパーマニファクチュア代表作の「シルバー事件」「キラー7」、海外作品の「バイオショック」に至るまで、構築されたシナリオを追うと言うよりも、結末や真相に至る過程で主人公の記憶や認識といったアイデンティティを巡る内的な部分を追っていくことがメインになっていく作品というのは数多く存在する。

 これは物語を解いていくことが主であるジャンル特有の現象であって、さらにビデオゲームの場合は他の観賞メディアと違い、受け手自らがゲームが提示する範囲とはいえ自由に行動し、道筋を選択していく行為というのが基調であり、同時にゲームが提示する行動の範囲の中であるポイントにて適切な行動を取ることで物語が進行する、俗に言うフラグを立てる、という形で大ざっぱに言ってアドベンチャーであれRPGであれ、物語の進行がメインにあるジャンルは全てそうした構造によって成立していると言っていいと思う。

 そして上の例に挙げた作品群というのは単純に「ある人物が記憶を回復させるための物語」「記憶をすり替えられたある人物が真相に近づく物語」を第三者的に観賞しているものではなく、プレイヤー自らの行動によって主人公が記憶を取り戻していくことにシンクロしていく、という「観賞者であり当事者である」ゆえのならず、ビデオゲームが物語を指向した際に避けられない「フラグ立て」の揶揄など代表にそうした「自由に動けるかと思いきや、自らで行動を選んだかと思いきや、結局のところ道筋も結末も決まっているものである」という真相や記憶回復に至る瞬間に辿りついた瞬間がそうしたゲームにおいての物語構造自体の矛盾を利用したの壮大な逆転になるというのがたとえば「EVER17」なんかがとても分かりやすく、あの作品が何にも増して優れていたのはビデオゲームが物語を指向した際に起こるそうした盲点とも言うべき構造が全て取り上げられていたことにあると思う。(こういう作品の場合さらに「時間軸がループする」「時間軸を俯瞰する」みたいな視点も加わるので「何故ノベルゲームは時間を繰り返すのか?」という章も可能かも)

  記憶喪失とその回復というテーマがどういうわけか選択されやすく、またそうした性質を持ちやすくなるのは、これは受け手が主人公を介して自由に行動し、物事を選択できる性質であるビデオゲームというものが物語を指向したゆえに起きた構造的なズレというものが理由にもあるような気がする。「逆転裁判」を作った巧舟さんの「ゴーストトリック」という作品もこれは記憶喪失というのがメインに据えられたものであるし、これも巧さんの凄まじいまでの伏線・回収のテキスト技術と相まって(いや本当に、ゲーム業界中最上位つってもおかしくないくらい)凄い傑作になっており、やっぱ達者なクリエイターほどこのビデオゲームが物語を指向した時に起こる盲点としての「記憶喪失」に敏感であると思われ、現在では数多くの記憶を巡る傑作がリリースされている中でノベルゲームやRPGの新作なんかでも物語構造にそうした部分が混ざり込んでいるというのをいくつも見かける。既に現在は記憶を失うことが物語の前提にあるということ、そこから自己や世界を立て直していくこととい物語構造こそが基調にあるのだろうか?(この前「ベヨネッタ」をクリアしたんだがこれもそういう気配がある。とかいうのは穿ちすぎか)

 アドベンチャーゲームが記憶を失う理由、それはプレイヤー自身がその世界や状況についてを認識していないことが記憶の無い主人公とシンクロし、そして自らの行動・選択によって物語を進めることで真相に近づいていくという構造によって起き、第二にはゲームでいくら自由な行動や多彩な選択肢があろうと設定されている分岐や結末の道は限られており、結局のところあるレベルでの運命や道筋といった物語というのはどうあがいても限られていることなどを逆転して利用することで、そうした筋書きやら運命やらから解き放たれることで自己を回復し結末を迎えるという物語のため、などと仮説を立てられそうだ。

 ビデオゲームにおける記憶喪失とは、ビデオゲームが物語を指向したゆえに起きた構造的な盲点を利用したことで起きたドラマツルギーであり、その盲点がプレイヤーに示唆する現象学的なレベルの意味深さは計り知れない。少なくとも自分はゲームにおける記憶喪失というものはクリエイターの作家性というもの以上に「ゲームが物語を指向すること」で起きる構造的なズレだったからこそ起きたと認識している。

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 とはいえこのレベルの話だとビデオゲームの現象学系でのアナライズをやっていたゲーミアン様の記憶喪失学と反復しているので、もう少し押し進めて今後はもっと遡って記憶喪失的な物語のゲームらがモデルとしているだろうジャンルとして、実際に物語構造に選択しているジャンルとしての「ミステリー」、「ハードボイルド」の小説などの、チャンドラーなど実は記憶や認識といった部分に寄る部分も大きい物語展開はいかに伝染したのか?さらには村上春樹作品の特筆すべき点などアドベンチャーゲームの記憶喪失というテーマから翻っての小説批評、映画批評なども可能と思える。というわけで「ビデオゲームをフィルターとして俯瞰する現代エンターテイン総合・混合批評」一発目、こっから「記憶喪失、そしてその回復」の今回考察したテーマ「主人公=受け手」みたいな分かりやすめの視点を援用しつつ次回よりゲームスコープサイズの映画批評などを展開させて見る、ということでよろしく。

 

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